ると 雑記妄想倶楽部

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僕のときのお話!

こんにちは~ ると デス

 

今回は昔のお話をダラダラと僕VERSIONでいたします🙇

 

30年以上前の話になる。
僕は大学を卒業後、地元愛知県の企業に勤めようと考えたのだ。
親の事が気になったこともあるし、愛知のある企業の金に目がくらんだのだ。
そういってしまうと僕はとても腹黒いヤツに思われがちだが今では当然の事だと感じている。
それにいわゆる渋カジが好きだったから、ファッションに関する仕事をしたかったのだ。


理系であったにもかかわらずその道に進もうとしたのには訳があり、僕は理系の能力やPCの能力も冴えないうえ、そういった関係がとても好きになれなかったからである。
要はそのころはまだ、好きか嫌いかで物事を決めていた気がする。
今思えば若者らしくもあり、何も考えず思慮が浅はかであった気もするのだ。

 

1年間を相模大野で過ごし、3年間は狛江市で過ごした。
今でもあの頃はキラキラ輝いていたと思う。やることなすこと楽しかったし、日々の生活が思うように何とかなると思い込んでいたのだ。
何するにしても勢いでやり過ごしてきた。まさに浅はかである。
当時の就職活動は完全に売り手市場であり、今とは比較にならないほど簡単な活動であった。
それはもしかすると浅はかな僕だけの特権であったのかもしれない。
とにかく深く考えることが苦手であり、注意散漫で学生としても社会人としても常識が欠如していたのだ。

 

そのころ身につけてしまった処世術は今でも色濃く残っており、論理性もなく思慮深くもない、当時の僕がそのまま年を取ってしまった感じさえするのだ。

 

名古屋のテキスタイルメーカーに勤めることになった。
面接も最後の最後であったらしく、席次も一番最後、いわゆるドベ入社であった。
20名ほどが企画営業入社組、その他事務職やデザイナーを含めると100名ほどが入社していたらしい。
良い会社、大きな会社に就職したとは微塵も考えておらず、これが普通の会社なのだと思った。
まさに浅はかである。

 

モノを知らずに過ごしてきたのには、もちろん僕の性格や考え方のせいもあるが、これにはちょっとした訳があるのだ。

 

相模大野1年目、ボットン便所風呂無しのアパートの部屋で、相変わらずボーッとしていた時にどうして知ったのか思い出せないがアイドルの岡田有希子さんが亡くなった事を知った。
ショックであった。なぜだ?なにがあった?
この事件が発端となり、そのころから痛烈に感じていた思いが、開眼してしまったのだ。

 

古いアパートから駅に向かう道の途中で、僕は開眼した。
愛知も人が多くいた。ところがどうだ東京は?この人の多さをどう思う?
チョットしたことで悩みがちな自分を誰かがどうにかしてくれるのか?
もちろん温かく接してくれる人も友達も、今までもこれからもたくさんいるであろう。
悩んで考えこんで、自分を取り巻く世界が止まってしまうかと言えば断じてそうではないのだ。
良き思い出は心の中で温めておくのは至極当然だが、僕に何かがあっても何を考えても、世の中は何もなかったかのように動いていく。

そう思えたら少しの事でクヨクヨしたり、悩んだり考え込んだりするのが馬鹿らしく思えてきたのだ。
大学1年の時であった。


その時から僕は思慮が浅くなったと思う。良い言い方をすると悩まなくなったし嫌なことに考え込まなくなった。悩まないようにしたともいえる。
完全にその時は開眼した気がした。その時は・・

 

ところがどうだ今の自分は
笑っちゃうけど、果たしてその時の僕のままかな?
かなりの部分でそのままだけど、背負っているものが完全に違うよね。
いい加減では済まされない環境に身をおいてるってものもある。
少しは大人になったかな?

 

あの当時の僕は、30年以上たった今、輝きは幾分失ったが全力少年のまま、少しだけやっとのことで成長した気がするのだ。

 

僕が東京で得た一番の出来事のお話でした(笑)
今でもその時得た感覚はしっかりと焼き付いているのです。

突然書きたくなりましたので
その時の僕VERSIONで書かせてもらいました(笑)

そしてワシはいま違う仕事をしております。

ハイッーっ!

 

いまではすっかりワシすぎるワシからは以上です
ありがとうございました!!